meineko’s blog

元つくばの某独立行政法人勤務の植物屋です。最近は、ほぼ、突発天体の話題です。

できない山羊

./Jで張られていたlinkから

十分なデータ数がないので疑わしいままではあるが、最初のテストにおける3つのグループの違いは「無意味なもの」に対する姿勢の違いのように見える。


形式論理的な証明、つまりプログラム(プログラム言語と呼ばれる形式的なシステムで表現されている、特定の計算が可能である形式論理的証明)は、それ自体はまったくの無意味(meaningless)である。あなたがプログラムを書くためには、あなたがプログラムに意味して欲しいことがなんであれ、これを受け入れる必要がある。機械は盲目的にその無意味なルールに従い、何らかの無意味な結論に至るのだ。
プログラミングできる人とできない人との間の深い溝(翡翠はコンピュータに卵を生むか)


わたしは、プログラムの出来ない山羊です。
時々、必要にかられるので、ゴリ押しででっち上げますが、抽象化ができないので、効率的なプログラミングができません。
上記blogで出された問題は、プログラムにおける代入のルールを訓練で身につけたので出来ますが、抽象化はできてません。
以前、Pascalで書かれたソースをCに書き換えましたが、言語の違いによる文法の違いを、機械的に置き換えることは出来ましたが、どういうアルゴリズムでそのプログラムが動くのか理解できませんでした。


思ったのは、あれ、掛け算の順番にこだわる教育法。
抽象的概念を扱うには早いからって、順番にこだわって教えて、逆でも同じというのはもっと後になってから教えようという考え方です。
あれって、落ちこぼれを出さ無いことが目的化されて、教育の意味は後回しなんじゃないかと言ったら穿ち過ぎでしょうか?
国語をやると、言われたことを理解して実行できる人材は要請できるけれど、イノベーションを起こせるような人材は、数学をやらないと育成できないのではないかなと言ったら、さらに、ひねりすぎ?